ユルクネ。

*20代で渡米。30代になってから妊活、不妊治療。二児の母となり、アメリカで育児(自)中です。*

人種的マイノリティであるということ

思い返せば、若い頃は「変わってるね」というコメントがちょっとうれしかったものです。たぶんそれは、自分がごく平凡な人間だとわかっていたから。ちょっと変わった「特別な存在」になりたかった。しかし今は、なるべく「異なるもの」になりたくない。それは、自分という存在そのものが既に「異なった」ものであることが多いから。これまで行ったことのある国々では、ほぼほぼどこに行っても人種的マイノリティでした。単に、自分の経験が限られていて、住んでいるアメリカの他にはヨーロッパの数国にしか行ったことがないというのが大きいですが、白人がマジョリティのエリアの経験しかないので、自分が異質な存在なんだと感じさせられます。

たとえば、ヨーロッパの片田舎とかに滞在していると、町で唯一のアジア人とかになりかねない。そうすると、凝視するではなくとも通りすぎる人たちが他の人には向けない一瞥をこちらに向けている気がする。物珍しいからね。せめて着る物とか外見ぐらいは周りと同じで、余計な目を引かないように、変な憶測を招かないようにと思ってしまいます。マジョリティでないものは差別されないため、または単に奇異の目でみられない、ある意味特別扱いを受けないためにマジョリティと同化しようとするもの。

アメリカでも、南部の町を訪れた時は、白人の夫と歩く私を明らかに奇異の目で見る人がいた。アジア人が珍しくないアメリカの大きい都市にいる時でも、路上にいる人に大きな声で声をかけられるのはあまり好きではない。だって、他の人にはそれしてないんだもの。たいてい、「ニーハオ!」と言われ、首を振ると「コニチハ!」が飛んでくることも。単にフレンドリーにしようとしてるだけ、という見方もあるかもしれませんが、「ちょっかいを出してもいい相手」と見下されているような感じがするときは、やっぱり嫌。私が考えすぎな時ももちろんあるだろうし、相手の意図を誤解してることもあるだろうけれど。たぶん、外出するときは多少身構えているところがあるんだろうと思います。無意識に、その場の集団にアジア人がいるか確認している自分がいたりするのです(汗)。

そういえば、つい最近、相手が私を日本人とみなし日本語で話しかけてきて、それが好ましいと感じたこともありました。一つは、空港のセキュリティのお兄さん。パスポートを見せてるので、それは差別とか見た目の判断とかではなく、国籍の確認。それを見た上で、たまたま日本語のできたそのスタッフは、軽く日本語で挨拶してくれた。空港のセキュリティってちょっと緊張しているので、少し気が楽に。もう一つは、スイスのチョコレート工場見学をしていたとき、その場にいたスタッフがかなり流暢な日本語でちょっとした案内をしてくれた時。たぶん、ひと昔前は大勢の日本人観光客が訪れていたからだと思いますが、何かを売り込むでもなくただ通常の案内を日本語に切り替えてしてくれた。とても丁寧な日本語だったので、ただ思いつきで「アリガト! コニチワ! サヨナラ!!」とか言われるのと違い、「会話」をした感じ。これはなんかすごく嬉しい。

逆に、あまり好きでなかったのは、ヨーロッパで子どもむけのアクティビティができる施設に行って、やたらと「Speak English?」と聞かれたり、現地語で「こんにちは」と私にだけ向けて言われたりしたこと。挨拶されるのは一見フレンドリーなのですが、その後、私に向かってボールを投げてきたり、トランポリンなら私のそばでわざと跳ねたり。相手は小中学生くらいの年齢の子ども。見た目的にローカルに溶けこんでいる夫はスルーしてなんで私だけに話しかけるんだろう? なんかニコニコしてるというより、ニヤニヤしてるの? 「英語できる?」と聞かれる時も、相手はさして英語ができるわけではないので、知ってるフレーズを一方的に投げつけられるだけで会話になるわけでもないし。

こう考えると、相手がある程度の敬意を持って接してくれていれば、こちらも「なんか、からかわれてるのかな?」とか心配せずに話ができるのだと思う。その「敬意」というのは距離感のことでもあって、突然声をかけるのではなく、何か小さなきっかけがあって、なんならこちらから話しかける用事があったりして、「たまたま」日本人だということが判明して、その話が膨らむ、というようなシチュエーションだと私も安心して会話ができる。そもそも日本に興味を持ってくれていたりすることは嬉しいわけだし。しかし、私を「異なるもの」と認識して、近づいてきて、ちょっとちょっかいを出す、みたいな雰囲気だとあまり好ましい印象は持てない。他の人には一切しないことを、その場で見た目的に一人「異質な」私に対してされるのは……ね。

これらは、アジア人の容貌から引き起こされることで、ここにさらに言葉の壁が入ってくる。みんな同じような見た目の日本にいて、その地の言葉が問題なく話せる環境にいた時、つまりマジョリティだった時には、マイノリティであるということがどういうことなのか、まったく想像もつかなかった。自分がマジョリティでいられる国を出て、いわゆる「有色人種」なんだというアイデンティティが確立してきた今日このごろ、見える世界が若干変わった気がします。