ユルクネ。

*20代で渡米。30代になってから妊活、不妊治療。二児の母となり、アメリカで育児(自)中です。*

結局、聞きたいことしか耳に入ってこないのかもしれない

親歴10年近くなり、子育てに関する大小の悩み、それに対応する各種アドバイスを聞き、決断し。。。を繰り返していて気がついたこと。結局自分は、自分の中に、こうしたい、こうありたい的なものがあり、それに合うようなアドバイスを求めている。合わない意見があれば、違うものを求めて検索するなり他の人に聞くなり。本当にどうしていいかわからない、「正しい答え」がないような問題でも、たぶん、色々聞くうちに自分の考えが固まってきて、自然それに沿った情報が入ってくるようになる。

たとえば、子どもの教育。特に、日本語教育をどのぐらいどこまで続けるか、と言うようなバイリンガル教育は、最近の自分の目下の懸念事項。多言語教育については、私の強い希望と、幼児期、子どもの発達に何の問題もなく、すんなり反応してくれる子どもだった、という状況があったから、幼児期はそれを貫けました。これで、子どもの発語が遅い、とか何かしらの心配事があれば、日本語なんて英語に比べたら実用性低いし、話せなくてもなんの支障もないし、と切り替えていたはず。最初は辛くても、きっと、優先順位をつけて割り切ったと思う。英語ができれば十分、と。そしていかに子どもの頃の多言語教育がむずかしいか、たとえやってみてもうまくいかないこともあるとか、そういう情報に目が行くようになったかもしれない。

今、子どもが小学校中学年になり、日本語教育を継続することの難しさに直面している我が家。そうすると、「土曜日の日本語学校がなければ、好きなスポーツを存分にやらせてあげられるし」と思ったり、「たとえ補習校に通い続けている子でも、日本語は大してできなかったりする」とか「大学生になる頃には読み書きはすっかり忘れてる」とか、「小さい頃、相当できた子でも日本人の親の質問に英語で答えるティーンになってる」とかそんな話にばかり目が。この裏には、補習校に高校まで通い続け、漢検など定期的に受けて漢字も勉強し、大人とも日本語でしっかりした受け答えができる素晴らしい子もいる、という事実ももちろんある。しかし、自分の子どもの学習意欲とか関心とかを考慮すると、うちの子はこのタイプではないというのもさすがに明らかに。ここで無理強いしてやらせ続けても、宿題のたびにバトルになり、漢字をやらせようにも本人が覚えなければ意味がないし、無駄に親子関係を悪くし、消耗するだけだと感じました。お勉強でなくとも、細々と続けることに意味がある。私の両親と会話ができるカジュアルな会話力が保てれば良い、と思っています。が、これも、漢字を勉強させようとしても思うように行かず、国語学習に抵抗を示す子どもたちを見ているからこそ至った考え。お友達の日本人家庭のお子さんのように、土曜日に日本語学校に行くことを厭わず、漢字を嬉々として勉強する、みたいな子だったら全く違うことを考えていたでしょう。

なので、私のこの環境で、日本語はできる範囲でゆるーく続ける、という結論に至ったのはある意味当然の成り行き。そして、親としての自分たちのスタンス、子どもの性質も時間が経るにつれはっきりしてくるので、なるべくしてこうなったとも言える。私はあまりガツガツ(←主観です)子どもに勉強させるのが好きではなかった。そしてうちの子たちも、自分の気に染まないお勉強をするよりは外で遊んでる方が好きな子だった。周囲を見ていると、「せめて小学校卒業までは」と思って頑張っている家庭が多いけれど、そしてその気持ちはよーくわかるのだけど、子どもが抵抗を示し、毎週の日本語学校の宿題をこなすのに毎回一悶着あり、親子共々疲弊してしまうのなら。。。手放すのもアリなのかなと。日本語学校は辞めずとも、宿題はできる分だけすればいいことにするとか。漢字テストはできなくてもいいというとか。日本人である親が自分に課された宿題として躍起になっている図をたまに目にしたりすると。。。うん、私はなんか違和感。これ、自分のやりたくないやつ、って思いました。

というわけで、日本語の「お勉強」嫌いの子どもを持った我が家としては、日本語学校は続けられるだけ続けるけれど、宿題や漢字のお勉強はしなくてもいい。できるときにできる分だけする。ただし、ママやじいじやばあばと話すときは必ず日本語。大人になって、仕事に日本語を使うようなことは無理だろうけれど、日本語ができないパパを案内してあげられるくらいの語学力と知識(日本の習慣や常識、文化について)はある。目下、この辺を目指しています。

子どもの教育とか、正解がない問題の場合、どういう答えに落ち着いてもいい。それがその子に合った方針であることが大事。と、思っていますが、ここに至るまでに、色々なケースに触れ、他の家庭の話を聞いては揺れ、というプロセスがありました。それでも、その間「これはいやだ」「これだったらまあいいか」などなど感じ、取捨選択して方向性が決まっていき、その方向性に合致するような話が入ってくる、またはそれに注意がいくようになっていきました。ついつい、「正解」を求めてわかりやすい答えはないかと探してしまうものだけれど、色々な情報を集め、その中で自分に合うものを探し、方向性を定めていく。その過程で、自分の目指すもの、欲しいものを言語化し、自己認識していく。子育てに正解はない(または、答え合わせは何十年後とも言える)ので、せめてそうして自分の意向を明文化し、その場その場で納得しながら取捨選択していくことしかできないのかなと。最近はそんな風に感じています。