ユルクネ。

*20代で渡米。30代になってから妊活、不妊治療。二児の母となり、アメリカで育児(自)中です。*

子どもの日本語教育の壁

海外で、永住を見越した長期で子育てをしていると、日本語教育をどこまで続けるか、ということに親は必ずと言っていいほど頭を悩ませることになります。アメリカの場合、日本語を使う機会は家庭の外ではほぼゼロ、必要性がなく、かつ現地語の英語との距離も大きい日本語を保ち、年相応に伸ばしていくのは至難の業です。子どもの性質や家庭環境などによるところも大きいですが、親の多大な努力なしには、そこそこのレベルのバイリンガルはほぼ不可能。これは、子どもの幼年期にはあまり感じませんが、学齢期に入ると如実に現れ、実感することに。

例えば、アメリカ永住家庭で、子どもが学校に上がる5歳まで家にいた場合。先生もお友達も英語という保育園に行っていない分、たとえ片親が非日本人でも、日本人の親が徹底して日本語だけを話し、英語にプラスして日本語の本を読み聞かせしたりしていれば、ここまで日本語を保つのはそんなに難しくはない。もちろん、子どもによっては、言葉が出始める2歳ごろで多言語に混乱してしまい、英語に絞ることにせざるを得ない、というケースもあります。でも、概ね、このくらいまでは親が強く希望して行動していれば、できなくはない。

しかし、5歳で小学校に入ると、一気に英語のシャワーを浴びることに。親としては、この時点で日本語しか話せない子どもは、現地校で苦労することになってしまうので、日本語も保ちたいけれど多少は英語もできないと困る、と思うのが自然でしょう。英語で意思疎通ができなければESLのクラスに入れてくれますが、この分、他教科で遅れをとると考え、子どもの教育に熱心な日本人家庭はESLクラスを好まない印象。このくらいの時期から、たとえ日本語が強かった子どもの場合でも、だんだん英語と日本語のバランスが逆転してきます。なので、第一の壁は子どもが学校に上がる5歳。保育園やプリスクールに通わせるのなら、この数字はもっと小さくなります。

そして、日本式に小学校1年生になる6歳ですぐ次の波が。運よくアメリカ都市部に近く、近郊に日本語学校がある場合、土曜日はそこに通うことにする家庭が多い。政府からの援助を受けている補修校では、日本と同じ教科書を使って、日本の教育課程に従った授業をしています。しかも、日本の子供たちが週5日でこなすことを土曜日の6時間でこなそうとするため、詰め込み教育になりがち。到底追いつかないので、大半は家庭学習として各家庭に投げられます。学校によって違いますが、アメリカの公立校低学年の宿題に比べ、断然量が多い日本語学校の宿題をこなすために、平日は毎日この宿題をさせ、ひらがなやカタカナを覚えさせ、土曜日のテストに備える、というのが1年生。まだ学習習慣ができておらず、集中力もそんなに持たない6〜7歳児につきっきりで勉強を見てやる必要があります。

そんな生活を1、2年続けられた場合、次のかなーり高い壁は、子どもが3〜4年生になる頃。この頃には漢字がかなり入り、難しい語彙が国語だけでなく他教科にも出現してくるので、補修校の授業が苦痛になってくるケースが激増。それでなくとも、アメリカ人の子ども達が好きに過ごせる土曜日を丸々潰して補修校に通っているのに、そこで受ける授業が難しくてわからない、毎週何十という新しい漢字をテストされ、膨大な量の宿題を平日にこなす、嫌になっても仕方がないと思います。特に、スポーツをしている子ども達は、平日の練習に加え、週末は大抵試合が入ってくるので、両立が難しく、3、4年生で補修校をやめていく子が多い。補習校をやめる=日本語ができなくなる、では全くないのですが、日本語を使う友達との関わりがなくなり、そういうコミュニティがなくなるのは大きい。かつ、それまでいやいや補習校に通わされていた子ども場合、日本語嫌いになってしまうケースもあるかもしれない。

我が家はまさにこの瀬戸際に来ていて、決断を迫られています。6年生までは日本語学校に行く、と言っていたのですが、中学年の今、非常に危うい。本人は、行けば行ったでお友達と楽しそうにしているし、それなりに学校生活を楽しめてはいるようだったけれど、やっぱり本音は早く辞めたいらしい(泣。加えて最近は、土曜日に試合のあるスポーツの方が楽しくなってきた模様。日に日に英語が強くなっていく子供を見ていると、せめて日本語学校は続けて欲しいと思いつつ、本人が嫌がっているものを無理強いしたものか。。。と悩みます。そして、本人がやりたいと行っているスポーツなどの活動を、親の私がやらせたい日本語学校のためにさせてあげられないのが心苦しい。学年が上がり、現地校の勉強も大変になってくるはずなので、日本語があまりに大変になってきたら、負担にならないよう日本語の方を削る決断をする日はいずれ来るのだろうな、と覚悟しています。